新人研修合宿 プロローグ(1) 到着


「あ!あれが今日宿泊するホテルじゃない?」

 山道を何時間にも渡って走行してきたバスが、ようやく鬱蒼とした森林を抜けて、見晴らしのよい台地に辿りついた。

 視界の先に現れた建物に目ざとく気づいたのは営業課の女子社員、池下順子だ。茶色く染めた髪、アイラインの濃い化粧、指輪やネックレスなどアクセサリー類も複数身につけている。

 営業課の中でも順子は目立つ方である。何らかのグループを作ればナンバー2かナンバー3の座には必ず収まる。といっても仕事熱心なわけではない。物怖じしない性格ゆえに他人へ指図することに躊躇しないだけだ。行動はあくまで自己中心的なのだが、口達者なためか年配の上司にも受けがいい。

 その池下順子が、バスの中ほどで窓外をぼんやり眺めている女子社員に声をかけた。
「ほら、なにボーッとしてるのよ、谷村さん。もうすぐホテルに着くわよ?おネムでちゅか?」

 赤ん坊言葉でいなす声色に、車内の営業課一同がドッと笑い声を上げた。からかわれた女子社員─谷村早苗は、ハッと顔を上げ、困ったようにはにかんで見せた。
「すみません。外の景色が綺麗なので、思わず見とれていました」
 ハキハキとした口調ながら、少し恥ずかしそうに浮かべる笑みが愛らしかった。

 早苗は、今年入社したばかりの新人社員である。まだ働き始めて半年ほどなので、社内の不文律めいた空気には不馴れな面があった。初々しさと言ってもいい。同期入社の誰もが早苗と大同小異のぎこちなさを少なからず残している。だが他の新人社員と違うのは、早苗の可憐な容姿だった。

 端正な顔立ちに多少の幼さが共存し、ウブで清純な印象を与える。TVタレントやグラビアアイドルにも見劣りしない透明感を湛えていた。二重瞼の涼しげな目元、その奥に輝く瞳は、意志の強さも感じさせる。整った鼻筋の先には、たおやかに結ばれた唇が白桃のようにほんのり色づいている。

 身長はそれほど高くないが、学生時代にスポーツで培ったバネが細身の肢体を引き締めている。ゆったりした服装のため人目につきにくいが、プロポーションも人並み以上のものを想像させた。それらの長所を引き立てる肌は、溜め息が出るほど白い。

 今年入社した新人社員の中では、早苗の美貌は群を抜いていた。同期はもちろん、先輩社員の間でも早苗のことは噂になっていた。

 ただ、早苗本人は美貌によって目立つ事を望んでいなかった。自分の容姿が優れている事は、中学・高校・大学とあまたの男性に言い寄られてきた経験から、充分理解している。だが外見ばかりを評価する周囲に対してずっと苛立ちも感じて来た。社会人となった今は仕事で成果を出し、実力や内面を評価してもらいたいと思っていた。

 そのため、化粧はファンデーションを塗るに留め、アクセサリー類もあまり身につけない。肩まである黒髪は小さくゴム紐で束ねて、色気のない姿をわざと取り繕っていた。服装も地味で機能的なものを中心に選んでいた。デザインの地味さだけでなく、ボディラインが出ないことにも気を配っている。

 スレンダーな体つきだが出る所はしっかり出ており、女性としてのアピールには事欠かない。もし体のサイズにピタリと合う服を選んだら、平均以上に豊かなバストがあからさまに強調され、男性陣の注目を集めてしまうだろう。あえて1サイズ大きめのシャツを選び、その上にもう一枚羽織るといった念の入れようだった。

 営業課に配属されて以来、早苗はひたすら仕事に没頭した。都内の有名大学を卒業した地頭の良さもあり、与えられた仕事をソツなくこなすことで、社内評価を上げていった。入社数ヶ月にして同期の中で頭一つ抜け出した存在になりつつあった。さらに学生時代の海外留学経験を買われ、社内のコアプロジェクトたる『海外取引戦略会議』にも、末席ながら参加を許される立場となった。

「どうしたの早苗?元気ないんじゃない?」
 バスの隣席に座る井村加世が小声で尋ねて来た。加世は早苗と同期入社で友達のような間柄である。
「ううん、そんなことないよ」
「もしかして菅沼先輩が来てないから元気ないの?」
「・・」
 早苗は声に出しては返答しなかったが、実際、その通りだった。

 早苗が尊敬して止まない先輩、菅沼美紗子。美紗子は早苗と同じ営業課所属だが、その有能さを買われてコアプロジェクトの中心メンバーに抜擢されていた。今では営業課に顔を出すことも稀で、『海外取引戦略会議』の取りまとめに大忙しの日々を送っている。

 有能なだけではない。とびきりの美人なのだ。早苗の可憐な美しさとは違い、菅沼美紗子はもっと成熟した大人の美しさを湛えている。頼りがいのある姉御肌で男性社員から一目置かれているが、食事の席などでは率先して料理を採り分けたりと、女性らしい細やかな気配りも忘れない。ハードなスケジュールに追われても笑顔を絶やさないその姿は、早苗が目指す「社会で活躍する女性」の理想像だった。

 コアプロジェクトを通じて、美紗子も早苗のことを少しずつ気にかけてくれるようになった。二人が並んで立ち話をしていると「あの二人は絵になるね」と誰かが漏らすことが度々だった。美貌だけでなく有能さの面でも、早苗は「第二の菅沼美紗子」と噂されることも少なくない。その噂は、早苗にとっては誇らしい限りだった。

 しかし今日から3日間の新人研修合宿には、美紗子は参加しない。営業課の一員として少しだけ顔を出す予定ではあるが、多忙なスケジュールを抱える美紗子のこと、本当に顔を出せるかどうか定かではなかった。

「しょうがないよ早苗。菅沼先輩は忙しいんだもん。少しでも顔を出してもらえるなら、それだけで有難いと思わなきゃ。それにこの合宿は新人研修なんだし、私たちが頑張らなきゃ。ね?」
「そうだよね・・落ち込んでても仕方ないよね」
 加世の慰めに、早苗は健気な笑顔を浮かべた。

 その時、バスはようやく山頂のホテルへと到着した。

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