新人研修合宿 オリエンテーリング(11) レクリエーション


 順子は踵を返し、背後のリュックサックへと歩み寄った。その場にしゃがみ込み、リュックの中を手探りし始める。

 吉田と中島は互いの顔を見合わせ、黙って順子の後ろ姿を見つめた。黒坂もビデオ撮影を中断して順子を注視する。これから何が始まるのかと、皆、興味深げな面持ちである。

 やがて順子は立ち上がり、全員の方へと向き直った。手にはメモ用紙の束と数本のボールペンが握られている。軽く咳払いして、順子は話を切り出した。

「ずっと研修で疲れたでしょう。そろそろ昼食の時間だけど、その前に少しだけ体を動かしておこうと思うの。その方がご飯も美味しいんじゃないかしら?」
「賛成ですね。腹が減ってると食が進みますから」
「お前はいつだって食が進んでるだろ」

 ここぞとばかりに中島が吉田へとツッコミを入れる。順子は苦笑して続けた。

「はいはい。それでね、体を動かすにしても、本格的な運動じゃなくて、ちょっとしたレクリエーションを考えてるの。まだオリエンテーリングは続くし、怪我をするような運動は避けたいからね」
「なるほど、それもそうですね。・・で、どんなレクリエーションなんですか?」

 先を急ぐように中島が問い質す。すると順子は、手元のメモ用紙を掲げて見せた。

「このメモ用紙に皆でお題を書いて、それをクジみたいに一人ずつ引いていくの。自分が引いたお題をジェスチャーで表現して、正解が出たら一抜け、という訳。簡単でしょ?」

 かいつまんだ順子の説明に、吉田と中島は取り留めもなく頷いた。

 スポーツ的なレクリエーションを予想していた二人は、少しだけ拍子抜けした顔つきである。とはいえ異存がある訳でもなかった。ジェスチャーであれば、それなりに体も動かすし、怪我をする危険性も低い。順子の意図に沿ったゲームとは言えるだろう。

 全員の表情を確かめながら、順子は更に説明を続ける。

「もちろん、自分で書いたお題を自分で引く可能性もあるし、他人のお題が回って来るかも知れないし、そこは完全に運任せよ。簡単なお題を引くか、難しいお題を引くかも運任せ。ある意味、公平なゲームでしょ」
「・・えっと、もし難しいお題に当たって、ずっと答えが出ない時はどうするんですか?答えが出るまで同じジェスチャーを続けるんですか?」

 ふと中島が気がかりそうに訊ねた。

 即興でジェスチャーを行う以上、必ずしも上手く演じられるとは限らない。仮にジェスチャーの出来が良くても、正解が出るかどうかは別問題である。いつまでも答えが出ないという状況は、充分にあり得る事だった。

 しかし、中島の懸念を払拭するように、順子は首を横に振る。

「その場合は、延々続けても仕方ないから、どこかで一旦打ち切りにしましょう。別のお題を引き直してジェスチャーのやり直しよ。何度かお題を変えれば、いつかは正解が出るでしょうし。もし何度やり直しても正解が出ない時は・・その人には、罰ゲームでもやってもらおうかしら」

 神妙に耳を傾けていた吉田と中島は、最後の一言に揃って眉を曇らせた。

「えっ?罰ゲームですか?それってどんな・・」
「あら、そんな大袈裟に考えなくていいわよ。罰と言っても、お昼ご飯を抜きにするとか、そんな程度の話だから」
「え?メシ抜き??それは・・うーん、簡単なお題が引ければいいけど・・」

 吉田が極めて深刻そうに呟く。食欲旺盛な吉田にとって、昼食にありつけない事は大問題なのだ。その様子をおかしそうに眺めて、順子は言葉を継いだ。

「それなら、自分で簡単なお題を書けばいいのよ。それを自分で引ければ問題ないじゃない。逆に、自分のお題を引く可能性が無いと思ったら、わざと難しいお題を書いて他人を困らせるのもアリかもね。その辺りがこのゲームの駆け引きよ」
「なるほど・・」

 吉田はいつになく思案げに頷いた。中島もやんわりと納得の表情を浮かべる。偶然の要素が強い分、プレイヤーの思惑に左右されるゲームなのだ。もし目論みに嵌れば、早々と一抜け出来る訳である。二人はあらためて、自分なりの戦略に思いを巡らせ始めた。

 だが会話に参加していない早苗だけは、一人、沈んだ面持ちで俯いている。

 無理もなかった。ビジネス研修において、全員の前で見せ物にされたショックから未だ抜け出せないのだ。入社以来、誰にも知られる事のなかった秘密――男性経験の無いバージンである事――を告白させられた上、容赦のない嘲りを浴びたのである。ジェスチャーゲームの説明に耳を傾けつつも、気持ちはどこか上の空だった。

 心の内で何度も繰り返されるのは、自分自身への申し開きである。

(あれは単なる研修だったのよ・・殻を破ることが目的だって池下先輩も言っていたじゃない・・オリエンテーリングが終わればビデオは消去されるのだし・・)

 もっともらしく順子が述べた理屈を、早苗は必死に信じ込もうと努めていた。しかしその健気さが、却って自らを隘路に導いている事には、気付く由も無い。

 順子はその様子を冷ややかに見つめていたが、やがてメモ用紙とボールペンを配り始めた。

 メモ用紙を手渡された吉田と中島は、早速、お題をしたためて行く。

 早苗もまた、手渡されたメモ用紙に、ぎこちなくボールペンを走らせ始めた。そもそもゲームに乗り気ではないが、一人だけ不参加を決め込む事も許されないのである。しばし考えた末、『電車の中でお年寄りに席を譲る人』と走り書きして、メモ用紙を順子に戻した。

 三枚のメモ用紙が順子の手に戻り、裏返しの状態でシャッフルされる。やがてトランプのカードを差し出すように、順子はメモ用紙を扇形に広げた。

「まず、吉田くんからね。一枚選んでちょうだい」
「よーし・・」

 鼻息荒く、吉田は一枚のメモ用紙を引き抜いた。すぐさま内容を確認する。途端に小さな舌打ちを洩らしたが、そのまま吉田は一歩前へ出た。

「じゃあ・・始めます」

 宣言と共に、吉田は右肘を折り曲げて、前方に突き出した。テーブルの上に肘を着くような体勢だった。歯を食いしばり、肘から先の腕をワナワナと震わせて、腕に力を込める。一見して腕相撲のジェスチャーだと理解できた。

 やがて吉田の腕は、架空の台上をジリジリと傾き、最後に勢いよく腕を振り下ろした。腕相撲に勝利したのだろう。と思うや否や、今度は何故かアゴを突き出し、右手を高くかざしたかと思うと、手の平を一閃させた。まるで、今まで腕相撲していた相手を張り倒すような動作である。

 そこまで演じ終えて、吉田は素面で正面に向き直った。これでジェスチャーは終了らしい。

「上出来、上出来」

 中島が薄ら笑いを浮かべ、上機嫌に拍手を送った。恐らくこのお題は中島が出したものだろう。憮然とした吉田の表情から察するに、どこか悪ふざけめいたお題なのかも知れない。

 その時、順子が念押しするように口を挟んだ。

「一応言っておくけど、お題を出した本人が答えるのは禁止ね。このお題は多分、中島くんが出したものだから、今回答えられるのは早苗ちゃんだけよ」

 突然名指しされた早苗は、困り顔で吉田を見つめた。吉田は期待混じりに、早苗を見つめ返す。小さなプレッシャーを感じつつ、早苗は当たり障りのない回答を口にした。

「・・腕相撲に勝った人が、相手の人のほっぺたを叩いた・・ですか?」
「うーん、近いけど、ちょっと足りないみたいね」

 順子は曖昧に言葉を濁した。それ以上の答えが出ない事を見越してか、吉田に対して再度のジェスチャーを促す。

 再び、同じジェスチャーが繰り返された。今度も流れは同じだったが、途中でアゴを突き出す姿が、先程よりも強調されていた。中島は必死に笑いを堪えている。しばらく考えた末、早苗はふと気づいた。

「・・あの、もしかして、物真似ですか?・・アントニオ猪木・・とか?」
「うんうん、じゃあ、最初から答えを言い直してみてくれる?」
「腕相撲に勝った人が、アントニオ猪木になって、相手の人のほっぺたを叩いた・・」
「まあいいわ、正解にしましょう。えーと、正確なお題はね、『アームレスリング大会の優勝者が実はアントニオ猪木で、負けた相手に闘魂注入』とメモに書いてあるけど、ちょっとマニアックよね」

 順子が判定を下すと、吉田がホッと安堵の吐息を洩らした。昼食抜きがよほど嫌だったのだろう。すぐさま吉田は中島を睨みつけた。

「お前、変なお題を出すなよな。危なかっただろ」
「別にいいじゃん、ちゃんと答えが出たんだしさ。ほら次、俺の番ね」

 涼しい顔の中島が、吉田と入れ替わりに一歩前へ出る。順子の差し出したメモ用紙を一枚引いて、その内容を確認した。少しだけ考え込んだ後、開始宣言する。

「じゃあ、始めます」

 中島はおもむろに、右腕を垂直に振り上げた。天井から何かが下がっており、それを手で掴むような仕草だった。全身はリズムに乗って小刻みに上下動する。続いて、数歩進んで椅子に腰掛ける仕草をした。着席した後も体は小刻みに上下動し続ける。――電車の中で吊革に掴まっていた人物が、空席を見つけて座り込んだ・・そんなイメージの動作だった。

 次に中島は、少し離れた位置へ小走りに移動した。その場で背筋を曲げて、杖を突く老人を表現する。早苗は、アッと声を漏らした。

 自分が出題した『電車の中でお年寄りに席を譲る人』のジェスチャーではないか。案に違わず、席に座る人物と老人を巧みに演じ分けながら、中島はジェスチャーを続けて行く。細部まで念入りな演技は、誰が見ても列車内の日常風景が目に浮かぶものだった。

 ジェスチャーの終わりを待つのももどかしげに、吉田が口を開く。

「電車の中で座ってた人が年寄りに席を譲るところ?」
「はい、正解よ」

 迷わず順子が判定を下した。中島は小さくガッツポーズを決めて、早々にジェスチャーを打ち切る。あっけない幕切れだった。

「これは簡単だったわね。中島くんのジェスチャーも上手かったし、お題もシンプルだったわ」

 順子に評され、中島は一層、得意げな面持ちである。最初から余裕を漂わせていただけに、こうしたゲームが元来、得意なのかも知れない。しかし意外な器用さを見せ付けられ、早苗も素直に感心の眼差しを送った。

 だが他人事として傍観できるのは、そこまでだった。

「じゃあ最後は早苗ちゃんね」

 順子の呼びかけに、中島が脇へと退き、ジェスチャーの舞台がぽっかりと空いた。その開けたスペースを見つめて、早苗の顔に少しだけ緊張が走る。

 すでに中島と早苗のお題は出終わっている為、残るお題は吉田が書いたものである。吉田の性格からすれば、捻ったお題を出したとは考えにくかった。その点、懸念するには当たらないと思える。

 むしろ気掛かりなのは、自分自身の頼りない姿の方だった。いま早苗が身につけている衣類は、バストサイズより一回りは小さな紐ブラジャーと、腰に巻き付けた手拭いタオル一枚きりなのだ。派手に動き回れば、無防備な箇所が更に露出しかねないだろう。

(大丈夫よ・・なるべく控え目に演じればいいだけだもの・・)

 頭の片隅で念じつつ、早苗は残り一枚のメモ用紙を順子から受け取った。

 ゆっくりとメモ用紙を表返し、その内容に眼を通す。だが、決意に満ちた表情は俄かに凍り付いた。困惑が波紋のように広がって行く。メモ用紙には次のようなお題が記されていた。

 『犬が電柱にションベンしてるところ』。

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