新人研修合宿 オリエンテーリング(1) 出発


 合宿2日目の午前7時、ホテル前の広場に参加者20名が集合した。

 全員、軽微な服装ということで上下ジャージ姿である。その中に谷村早苗の姿も見える。やはり長袖のジャージに身を包み、オリエンテーリングの説明を熱心に傾聴している。

 早苗の隣には、チームメンバーである体育会系の吉田とオタクの中島が眠たげな顔でボーっと立っている。昨夜は夜更かしでもしていたのだろう。その横には池下順子と黒坂剛士の姿がある。二人はたまに小声で言葉を交わしているが、内容までは早苗に聞き取れない。この5人で今日のオリエンテーリングを回ることになる。

 各自に地図とコンパスが支給された。地図を見ながら山中のチェックポイントを回り、チェックポイントごとに設置された札を入手する。全ての札を集めてホテル前に戻ってくればゴールとなる。チェックポイントを回る順序や道のりは自由だが、夕方5時までには必ずゴールすること、というルールだった。

 事前説明が終わり、チームごとの自由行動が告げられた。

 早速、順子がチーム全員を呼び集めた。
「うちのチームはこういう道のりで進みましょう」
 地図を指し示しながら順子が説明する。

 その道のりは、最初のチェックポイントを通過した後、次のチェックポイントとはかなり外れた場所にある渓流に向かい、そこで休憩と昼食を摂るというものだった。

 早苗はささやかな疑問を口にした。
「あの・・これだとオリエンテーリングの範囲から一度大きく離脱してしまうことになって、元に戻るのが大変ではないですか?」

 順子があからさまにムッとした表情を浮かべる。

「せっかく山道を歩くんだから、多少寄り道しても綺麗な景色を見られた方がいいと思うんだけど。どういう道を辿るかはチームの自由なんだから、ルールを充分に活用すべきだと思うわ。まあ、真面目な早苗ちゃんからすれば、道を外れるなんてとんでもないことかも知れないけど」

 皮肉っぽい順子の言い方に早苗は黙り込んでしまった。「早苗ちゃん」という呼び方が「世間知らずな子供は黙っていろ」とでも言わんばかりに感じられた。

「俺も池下先輩の案に賛成だな。真面目にオリエンテーリングだけ考えてちゃ疲れるだけだしね。少しぐらい歩く距離が増えても楽しみたいじゃん。早苗ちゃんも、もうちょっと頭を遊びに切り替えた方がいいよ」

 黒坂剛士が薄ら笑いを浮かべてそう言った。順子の言葉遣いを真似て「早苗ちゃん」と呼ばれたのが不愉快だったが、黒坂も先輩である以上、表立って文句は言えない。

 先輩2人がそろって同じ意見なので他の1年生に異論の余地はなく、順子の案を採用することになった。早苗としては、ささやかな意見を言っただけで自分が小馬鹿にされたことに、不条理さを感じざるを得なかった。

「ここにあるのがウチのチームの荷物だから、1年生は手分けして運んでね」

 順子の背後には大きめのリュックが3つ用意されている。膨らみ方からすれば、中身はほどほどに詰まっているようだ。たかがオリエンテーリングにしては大袈裟な荷物だった。

 落胆まじりの早苗はあえてその中身を尋ねる気もせず、黙ってリュックを1つ背負った。体育会系の吉田が1番大きくて重そうなリュックを背負い、中島が残りの1つを背負う。それぞれ大した重量ではないが山道を歩けばそれなりの負荷にはなりそうだった。

 ようやく出発という段階になって、また順子が口を開いた。

「じゃあ、あなたたち3人はちゃんとチェックポイントを回って札を取って来てね。私と黒坂くんは先に渓流沿いまで行ってるから」

 これには先ほどまで唯々諾々としていた吉田と中島も、不審な顔を浮かべる。

「え?先輩たちも一緒にチェックポイントを回るんじゃないんですか?」
「ここで2手に分かれるってことですか?それってルール的に大丈夫なんですか?」

 早苗も声には出さなかったが、吉田や中島まったく同意見だった。一時的に2手に分かれるにしろ、監督責任者が2人揃って離脱しては、そもそも監督責任者としての意味がない。

 それによくよく地図を眺めれば、現在地から渓流までは直線距離で15分にも満たないだろう。一方、チェックポイントを経由して渓流まで行けば1時間以上はかかる。詰まるところ順子と黒坂は、自分たちが楽をしたくて勝手なことを言い出したとしか思えない。

 1年生3人の不満そうな空気を察知して、黒坂が飄々と言った。

「おいおい、もう少しフレキシブルに考えてくれよ。どう行動するかはチームに一任されてるんだから、2手に分かれるのもチーム戦略としてはアリだろ?ルール違反じゃないよ。それに池下先輩と俺が一時的にチームを離れるのは、1年生だけでどれだけやれるか力量を見ておきたいってこと。漫然と5人で行動するより研修としての意味はよっぽどある」

「そういうことね。黒坂くんフォローありがとう。あれ?もしかしてあなたたち、私と黒坂くんが楽しようとしてると思ってない?もしそうなら一生懸命みんなのこと考えてるのに、邪推されて心外だわ」

 順子が取ってつけたような困惑顔を浮かべた。すると吉田も中島も、順子の機嫌を損ねることに気が咎めて黙り込んでしまった。

 「じゃあ新人さんたち、頑張ってね」と言い残し、順子と黒坂はそそくさと渓流へ出発した。残された新人3人は途方に暮れたが、誰となく最初のチェックポイントへ向けて歩き出した。



 黙々と山歩きを始めて10分ほど経った頃、吉田が「あーあ、やっぱりさっきの先輩の理屈っておかしいよな」と独り言をもらした。すると中島も呼応して「僕もそう思う。絶対楽しようとしてるって」と静かに呟く。

 吉田は思いがけず同意を得られたことに喜び、
「だよなー。絶対そうだよ。なあ、早苗ちゃんもそう思うだろ?」
 と今度は早苗へ話を振ってきた。

 突然「早苗ちゃん」と呼ばれたことに戸惑いを感じたが、彼らと打ち解けるには絶好の機会だった。早苗の性格上、陰口をたたくのは好きではない。だが内心では池下順子や黒坂剛士の言い分に納得が行っていなかったのも事実である。

 早苗は思い切って本音を言ってみることにした。

「うーん、あんまりハッキリとは言えないけど、私も変な理屈だと思ったかな。1年生の力量を試すなら、私たちがどう行動するか見ていないと判断は出来ないはずだし、完全に2手に分かれるのはちょっと違う気がする」
「やっぱりなー。早苗ちゃんが言うと説得力があるよ。さすがコアプロジェクトで活躍してるだけのことはあるな」
「そんな活躍だなんて・・」

 早苗は愛らしく微笑んだ。褒められた事よりも、同期社員と気持ちが通じたことの安堵感を感じたからだ。単純ではあるがそこが早苗の人の良さでもあった。

 チェックポイントに辿りついたのはそれから30分後だった。全体説明のとおり台の上に数枚の札が置いてあった。その中の一枚を拝借し、5分ほど休憩してから、また渓流へ向けて再出発した。

 だが渓流までの道のりは平坦ではなかった。上り下りの激しい山道が延々と続き、いつしか3人の額にもじっとり汗が浮かび始めた。背中のリュックがにわかに重みを増したように感じられた。疲れが出てきた証拠だった。陽もだんだんと高くなり、空気が熱を帯びて来たのが分かった。

 30分以上歩き詰めてようやく川のせせらぎに辿りついた頃、3人とも全身が汗まみれだった。吉田は水でも被ったようにひときわ濡れそぼち、中島は体力が無いため息も絶え絶えという様子である。二人に較べればマシだが、早苗も随分息があがっている。

「おつかれさまー。思ったより早く着いたわね。偉い偉い」

 ぐったりした3人を出迎えた順子と黒坂は、川辺に腰掛けて涼しげに水遊びしていた。その光景に3人とも気がぬけてしまった。

 汗まみれの3人はペットボトルの水を浴びるように飲んだ。噴き出す汗をタオルで拭い、渓流のせせらぎに耳をそばだてる。しばらくして、ようやく生き返った気分になった。

「それにしても3人とも汗だくねえ。山道はそんなにキツかったの?」
「想像以上に起伏が激しかったです。普段が運動不足なのかも知れませんけど」
「そう、ご苦労様。でもあまり休憩しすぎるとかえって疲れが抜けなくなるから、少しだけ体を動かしてもらいましょうか」

 順子に促されて3人はリュックを降ろし立ち上がった。すると順子が言った。

「えーとそうね、汗だくのままだと動きにくいでしょうし、まず着替えてもらおうかな」

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